!! attention !! 「スパイラル」シリーズ本編完結までのネタバレを含みます。









タイムリミットまでどうか






 屈託なく彼女が笑う。花みたいだった。強くて、図太くて、無邪気で、無神経で、自分の好き勝手に咲く明るいひまわりみたいだった。
「鳴海さん! 聞いてるんですか」
「聞いてない」
「んなあっ……酷い! これほど献身的に尽くしている私に対して、なんと無情な態度でしょう! 極悪卑劣とはこのことですね!」
「往来でそういうことを叫ぶのはやめろ」
 今日の彼女は、どうやらいつもより気が昂っているようだった。ぷんすかと大して恐ろしさを見せないアホみたいな顔で頬を膨らませ、しかし何やら黒い呟きを怪しい笑みとともに洩らしている。背筋が寒くなる。顔に似合わず、怖い女だ。本当に。
 ふと、空を見上げる。よく晴れていた。無性にやるせなくなるような、汚れを許さない青空だった。晴れの日は、得意ではない。かといって雨ならば良いのかというと、そうではないのだが。ただ、溜息も出ない敗北感のようなものが胸に押し寄せる。それをはるか昔から行って来た作業のように噛み殺し、あるいは飼いならし、静かに呑み込んだ。諦めることも、うちのめされることも慣れている。そう心を乱すようなことではない。それに、そう、結局は、心の問題なのだから。
「ですからね、鳴海さん。あなたはもー少し私のことを丁重に扱っても――」
「あんた、本当よく喋るよな。次から次へと」
 彼女の滔々たる訴えをばっさりとぶった切り、彼女の腕に引っかかっていた買い物袋を取り上げた。え、と不思議そうな顔をする彼女を、気のない調子を装って一瞥する。これでいいだろ、というように。
 彼の行動の意味を理解した彼女の頬が、徐々に笑み綻んでいく。顔中にゆったりとひかりが広がるようだった。あたたかくて、幸せそうで、どこか慈愛のようなもので満ちていた。それがあまりにも素直そうに見えるから、なんだか苦笑しそうになってしまう。まったく、人の気も知らずのんきなものだ。
「ふふふん。そうですよ、最初からそうしていれば良かったんです! こんなにか弱い女の子に持たせるなんて、男の風上にもおけませんっ」
 こんなことを言っているが、最初に持つと言い出したのは彼女だ。そのときは退院したての歩を気遣ったのだろう。嘆息する。
「だから持ってやったろ」
「――はい。ありがとうございます、鳴海さん」
 優しい声は不思議に胸に甘く響き、どこか大事なところを侵食していった。ひどいはなしだ。これは、あまりにも趣味が悪いんじゃないのか、兄貴。自分を誤摩化すように胸中でここにいない相手に悪態をつく。
 分かっている。
 彼女が怒ってみせたのは、確認だ。今、歩がどの程度体力を取り戻しているのか。ちゃんと動かせているのか。心配もあるだろうし、コミュニケーションの一貫でもあるのだろう。分かりやすいようで分かり難く、その複雑な気配りにきっと今までも助けられてきたのだ。
 分かっている。
 それが、彼女の、混じりけ無しのただの善意だけなのではないことくらい。
「もうすぐ火澄も帰ってくるし、飯の準備をするが、あんたも食っていくか」
「まあ、良いんですか? 珍しいですね、どういう風の吹き回しです?」
「……一応、荷物運びを手伝ってもらったからな。その礼だ」
 だけど、良いのだ。
 善意だけでは響かない。それを好意などとは思えない。彼女曰く後ろ向きで過小評価気味の自分には、そんな相手はありえない。彼女の中に詰め込まれたすべてで、歩の前にいる彼女だ。
 たぶん、はじまりが好意ではないからこそ。俺は。
「ふふふ、これは得をしました。ぜひご相伴に預からせてください」
「ああ」
「そっけないんですからー」
 まあ、鳴海さんらしいですけど。そう彼女が囁く。歩は一瞬、つよく瞼を閉じた。それから、細く息を吐く。
「あんた、ばかだな」
「!? なななんですか突然っ。脈絡なく失礼です!」
 そうでもないさ、という言葉は声には出なかった。家に着くと、食材を冷蔵庫にしまってエプロンを手にとり、それから時計を見る。火澄が帰るまで、もう暫し。ぎゃあぎゃあとかしましい彼女と、何の緊張もなく過ごす時間も、あと少し。
 すべてが悪い夢であればいいと願わないこともないが。
 けれど彼女の向けてくる笑顔に、たとえそれが本物ではなくたって救われているのだ。たぶん。多少なりとも。
 だから、自分のこの感情が、現実であるならそれでいい。







たぶん火澄編序盤あたり。歩がどのあたりから気づいていたのかは正確には分からないのですが、まあ、このあたりかなーという感じで(ぬるい)。きっと、彼はいろいろなことを想いながらこの僅かな時間を過ごしたんだろうなあと。