夢を見た。遠い過去の夢だった。
 いまだ、何も知らぬ頃。




しあわせなを憶う






 呼び声に振り向くと、春湖がじっとこちらを見ていた。どこか気遣わしげである。なぜだ、俺はまた何かやってしまっただろうかと視線を彷徨わせるが、今の時点では特に何も思い当たらない。ひそかに冷や汗を流していると、彼女はどこかほっとしたようにひとつ頷いた。
「よかった」
「な、何が?」
「ぼうっとしてたから、具合が悪いのかと」
 ああ、なるほど。
 凝視のわけが分かって、皆見は笑顔になった。すぐに怒られるという考えに及んだのは、おそらくベロニカの影響だな、と過去の自分に責任をなすりつけ、春湖の優しさにじんとする。ありがたさが沁みた。
「平気だよ、今朝見た夢のことを思い出していただけなんだ」
 夢? と春湖が首を傾げる。なぜかさきほど以上に深刻そうになってしまった。
「それは、もしかして」
「ああ、うん、考えてる通りだと思うけど、ほんとに大したことじゃないよ」 
 慌てて否定すると、彼女の表情がふわりとやわらぐ。そう、と微笑む顔に彼女の前世が重なった。リダも、機嫌の良いときはこんな風に嬉しげにわらっていた。ベロニカはよく彼女に怒られていたけれど、よく笑い合ってもいたのだ。 そんななにげないことを思い出して、それが妙に懐かしくてせつなくなった。こんな風に、穏やかに、過去の日常を話しては笑い合うことを、俺は、望んでいたんだけど、なあ。
(ああ、でも)
 それでも、また出会えたことが嬉しい。嬉しくて悲しい。
「皆見?」
「あ、いや。そう、リダとベロニカと、グレンとバルト、あとジャレッドもいたか? 背の低い樹があるところでさ、菓子となんかあのあまいパン? みたいなやつひろげて、お茶会みたいなことやったよな」
 はっと我に返り、誤摩化すように夢の内容を喋る。こんなに感傷的なのは、たぶん、あの夢のせいだろう。あまりにも、しあわせな夢だったから。この頃ではほとんど見ることのなかったたぐいの。
 ベロニカが愛した日常。
 そんな彼女の側で振り回されていたリダであるところの春湖は、ちょっとぐったりした様子で、ああ、と遠い目をする。
「あった、というか……ベロニカ様は、よくそういうことをしていたよね。リダがおやめくださいっていつも追いかけていって、なぜか手伝わされて……」
「あ、はは」
 笑うしかない。
「 本当に、ベロニカ様も皆見も、マイペースだよね」
 苦笑と溜息がいりまじったような囁きに目が丸くなる。なんですと。
「……お、俺も?」
「自覚、なかったの?」
 今度こそ呆れたような声がかえってくる。そんな自覚はない。人付き合いが、多少、下手な自覚はあったが。高校に入ってだいぶましになった――というより、そんなことを気にする暇がなくなったけれど。 
 春湖が呆れ顔を解き、懐かしそうに目を細める。そうして、じっと皆見を見た。
「……うん。皆見とベロニカ様は、やっぱり似てるよ。無茶、するしね」
 最後の言葉が少し気になるが、そのなんともいえない眼差しと声のやわらかさに、面映い気持ちになる。 『皆見晴澄』でありたいと思う。けれどベロニカは確かに自分の過去だった。少なくとも、まだ。
 だからだろうか。春湖の言葉が、なぜか無性にあたたかく感じる。これはおそらく、郷愁のせつなさだ。目を伏せる。リダ。グレン、バルト。騎士見習いのみんな。城の使用人に、神官たち。しかめつらのユージン。それに気を揉むヴィンス、仲良くなりはじめたモースヴィークの騎士の輪。
 ああ、と心のなかでつぶやく。ああ、彼らと。
 いつか、ただ笑い合えたなら。
 



 ベロニカ様、とリダが怒鳴っている。それに構わず、いいところにきた、手伝ってくれ、と食器を手渡して、草の上に布を敷く。そうすると、そんなことは私がしますなどとひどく慌てて言いだすものだから、ベロニカは思わず笑ってしまう。まったく。
 だから好きだよ、リダ。さあ、お茶にしよう。
 みんなを呼んで。




きっとなんてことない日の記憶だって、同じくらい思い出すよ。