になる






『トルーデ』


 いつか嫌いで堪らなかった声も、今はあの空の星のごとく遠い。


    *

「サー・エリオット?」
 ガートルードは目一杯驚いた表情で、器用に杖をつく青年は見上げた。
 エリオットは「やあ」と嬉しそうに微笑みながら片手を掲げた。その後ろで兎の従者が渋面を作っている。
 ガートルードはつられるように笑った。スコットの相変わらずの態度にも笑った。太陽に灼かれたように熱い石畳を踏みしめて、青い空から響く鳥の声に耳をすませる。時刻はそろそろ夕暮れ前、といったところである。
「お久しぶりです。お元気でしたか?……あ」
 そこまで明るく問うてから、彼女はハッとあることに気付く。そういえば、また手紙の返事が遅れていた。
「すみません、ちゃんと書いているんですが…その、」
「とても見れたものじゃないのだよ」
「!ノクス」
 いつの間にやら足下に来ていた黒猫をきっと睨む。事実なので反論しようがないが、だからと言ってむっとしない訳でもない。
「ノクス、あなたの字だって見れたものじゃないではありませんか」
「そりゃあ、この手で字を書くのは骨が折れる」
「猫ですもんね」
「違う」
 今度はノクスがむっとしたようにガートルードを睨む。ふん、と彼女は笑った。その様子に、エリオットがおかしそうに笑い声をあげる。「エリオット様…」と困ったようにスコットが呟いた。
「手紙のことは気にしなくていいですよ。のんびりと待っていますから」
「すみません…」
 ガートルードにしては珍しく、恥じ入るように俯いた。だがすぐに顔をあげると、ぱっと花咲くように笑う。
「では、では、お詫びと言ってはなんですが、私の星の部屋を見ていってくれませんか? サー、あなたならいつでも特等席をご用意致しますよ!」
「ああ、それは嬉しい!丁度貴女の星の部屋へ行こうと思っていたところなのです」
「本当ですか!」
 いつも大勢の客で大賑わい、もとい大稼ぎしている筈の彼女はしかし、とても嬉しそうだった。頬を赤く上気させ、くるりと回る。
「では特別にスコットさんのお席も用意しましょう!大人しくしていて下さいよ?」
「なんと無礼な!エリオット様、本当にいくのですか!」
「何を言う。お前だってガートルードさんの星の部屋は気に入っていたじゃないか」
「ぐっ―――で、ですがそれはその、尊きお方も制作に関わっていらっしゃいましたし…」
「なら良いじゃないか」
「エリオット様!」
 抗議するスコットにからからと笑って、エリオットは進み始めた魔女と夜の神の後を追った。
  

 *


 わっ―――――と瞬時に場が沸き上がった。
 それは、透明な一呼吸のような一拍後の、盛大な歓声と拍手だった。
「……やっぱり、素晴らしかったね、スコット」
「…はい。――あっ、いえ、その!」
 ぼうっとしたままうっかり頷いてしまったらしい従者に嬉しそうに微笑み、こつ、と杖で床を優しく叩く。
 美しかった。
 あれ以上美しい星の部屋は、きっともう一生見つけることは出来ないだろう。先物買いの激しい商人であるエリオットにそう思わせるほど、素晴らしい星空だった。
 エリオットは暫し瞑目した。目を閉じれば、満天の星とそれこそ瞬く星のように柔らかで純粋な声が蘇る。だが、それは残像に過ぎず。つい先程まで閃いていた美しさとは比べるべくもなかった。
「―――サー」
 ふと瞼を上げると、真上でこの星の部屋の主が、満面の笑みを浮かべていた。
「如何でしたか?」
「最高でしたよ」
 エリオットは心からそう言った。真っ直ぐな賛辞に微かに魔女の頬が赤くなる。嬉しそうだ。相変わらず彼女は星を愛している。
 そんな彼女の横でノクスが、ふぁあと欠伸をした。
「ところでガートルードさん」
「はい?」
「連れて行って欲しいところがあるのですが」
 きょとん、と彼女は目を丸くした。

   *


 ごう、と風が吹き荒れる。
 ばらばらと草が舞い上がり、何かに押し戻されるかのようにゆっくりと落ちて来る。ガートルードの長い髪も同様に。
 さくさくと、道をゆく。重く。
「……きたい場所とは、本当にあそこで良いのですか」
「はい。一度、来たかったのです」
 穏やかなエリオットの声に、くしゃりと魔女の表情が歪む。だが、それは直ぐ夕焼けに掻き消され、そして彼女が苦手がる赤みの強い橙に染まった。
「…そんなに、関わりはなかったように思いますが」
 足にも悪いでしょう、としかし諦めたような声で呟く。エリオットは苦笑した。
「ええ、でも。ほんの少し、関わってしまいましたから」
「……私のせいです」
「いいえ。せい、ではありません」
 ぴたりと歩みが止まる。空樹の枝先。
 穏やかな眼差しが、何か小さなものにそそがれる。
 それは、時間にすれば遠く、しかしまるでつい昨日のことのように思い出せるあの日に、完全にこの世から消えた二人の人間の墓だった。
 アンジェリカとノーマン。
 二人の。
 ガートルードはきゅ、と唇を噛んで、それからぐっとエリオットを振り返った。振り返って、ずる、と肩を落とした。
 エリオットは目を閉じて黙祷していた。
「さ、サー」
「エリオット様…」
 呆れたような呼びかけに、しかし彼はびくともしない。
 暫く奇妙な沈黙が流れ、くぁあとノクスが大欠伸をしたころ、ようやくエリオットは目を開けた。
「ありがとう、ガートルードさん」
「いえ…」
 ガートルードは、どうしてか複雑な気分になった。嫌いで、堪らなかった、上司と。かつて同室だった少女。自分と同じ魔女。
 エリオットの黙祷が、ほんの少し嬉しかったなんて。
「火の被害も、大分治ってきましたね」
「そう、ですね」
「もう大丈夫…とまでは言えませんが、回復してきたようで何よりです」
 ほぅ、と息をつく気配。
 珍しくスコットが、微かにしんみりとした表情で「そうですね…」と頷いていた。
 ガートルードはノクスの尻尾に触れながら言葉に詰まった。ぶんぶんと嫌がるノクスは無視した。
「――っはい。本当に、良かったです」
 今度は微笑む気配。
「それではガートルードさん。もうしばらくこの町にいるので、また近く会いましょう。それと、もし宜しければ今度は何か欲しいものはないか、院長さんに尋ねてくれませんか」
「もちろんです」
 ガートルードは二つの申し出に強く簡潔に頷いた。


 メモ帳を持って、星を見上げる。
 きらめく夜空に感嘆の息を吐いて、その全てを吸い込むように息を吸う。
 そうしながら、彼女は、ひとりの魔女は思った。
 彼らは星になったのだろうか。
 アンジェリカは魔女で、女で、きっと星になっている。かもしれない。分からない。でもノーマンよりよっぽど現実味がある。だけれど彼もなんだかんだで星になっている気がしないでもなかった。
「本当に、あなたの、あなたたちがいる空なんて、見たくなかったのに」
 睫毛を伏せて。隣で眠る夜の神の背を撫でる。
 珍しく感傷的になっている、と自覚しながら、その原因だろうエリオットにはまったく苛立ちを覚えなかった。
 どころか、何処かすっきりしている気がする。
 はぁ、とガートルードは溜息をついた。
「参りましたねぇ。星はこんなに美しいっていうのに」

 そして、ひときわ白い星が、きらり、夜空に輝いた。



何でか勝手に先物買いが激しい商人になっているエリオットさんです。
いや商人ってそんなイメージがあるんです!(汗)
お墓も超勝手なイメージでする……。