彼が愛するふたりの











 雪が降っていた。
 一面、真っ白に染まる。鼻先も、吐息も、石畳も何もかも、銀に光る雪に呑まれてしまう。
心にしまい込んだ、感情すら――深く。


「サチ」
 いつだって凛と響く声が、今の彼の名を呼んだ。どきりとして、手に息を吐きかけるという、この寒さでは実に無駄な行為を止まらせられる。
 少し、高くて。重みのない声。
 ……この雪の中で響くそれが、どうにも昔の記憶を刺激する。似ている、と思った。ほんの、すこしだけ、だが。
 街灯がぼんやりと照らす、国境へと向かう一本道は、石を敷いていることなど微塵も感じさせぬ具合に、真っ白だった。とはいえもうあと一歩踏み出せば静まり返った森の入り口に入るのだが。 
「フェン、もういいのか?」
 遠目に見えた小柄な方の同行者に問うと、彼女はこくりと頷き、何か透明な袋を差し出しつつ、小走りになった。動かずに彼女がやってくるのを待つ。サチの目前で止まったフェンは、ほうと息を吐いた。その後ろからゆっくりと大きい方がやってくる。手には酒瓶。
「これ」
「なにそれ?」
「貰った。道中で、食べてって」
 フェンは目深に被ったフードをさらに下へと引っ張る。銀の髪は今、染料で茶色く染まっているが、やはり気にはなるのだろう。前以上に、彼女の正体はバレてはならないものになっている。
 厄介なことだ。
 サチは苦笑して、そっかーと呟いた。得したな、と。
 恐らく彼女にこれを渡した人間は、彼女が誰と知らない。ただ、これからこの国を出る、ちいさな可愛らしい旅人とだけ、思っているのだろう。そしてきっとこれは、ほんの数日の情から出た餞別なのだ。
 フェンはうんと笑った。嬉し気に。けれどどこかぎこちなく。
だが、サチはそれでも、彼女が笑ったことが嬉しかった。随分、表情が出るようになったものだ。彼女もいつかは大輪の花のように笑うのだろうか。……それは、あまり想像がつかないけれど、それでも良いと思う。その笑顔に会えるまで、傍に居ればいいだけのことだ。――ああ、それとも。
 あいつのように、優しく、白い花みたいに、微笑うのだろうか。
 そっと胸を穿つのは、何より愛していた家族の声。 
 花のように、微笑って。優しい声で、彼を兄と慕ってくれた。――苦しませたまま、彼が殺した。楽にしてやるなどと、どの口が言うのだ。なんという欺瞞。ああ。
 どうして、気付けなかった。
 故郷を彷彿させる雪深さに、重く呑まれた感情が鮮明になる。深い白の中で、消え切れない悔いが、丸裸にされる。
 白は、弟の、色だった。
 スノウ。
「ロカ達と合流しないと」
「あー、だな。まったくはぐれるなんてなぁ」
「……」
 思い出したように呟くフェンと、黙るテオだ。一騒動あった後でも、あまり変わらない二人が面白い。
「それから、挨拶に」
「挨拶?」 
 もうひとつ付け足された言葉に、サチは首を傾げた。フェンは無言で頷く。
「アスフォデル兄様に」
 世話になったから、と続けれられ、納得する。そういえばそのようなことを言っていた。
 はぁ、と赤くかじかんだ手に息を吹きかける。ひゅうと冷たい風が強く吹いて、フェンのフードを巻き上げた。ぶるりと寒さに震え、酒が呑みたいと切実に思ってから、フェンのフードを戻してやろうと 手を伸ばして、
「――――」
 止まった。
 染まった、茶色の髪。もとは銀だ。今の彼女をたとえるなら銀の髪の英雄ではなく、偽王フェンだろう。
 だがそんな揶揄いも出て来ない。
 雪の中で、雪に降られて、雪に呑まれた地面を踏みしめて。
 短く切った髪を、ぼんやりと風に遊ばせる。
 まるで。
 まるで、それは。
「……サチ? どうか、した?」
「……いや。この街ってさ、 何でこんな豪雪なの? 他のところはそうでもなかったよな」
「……解らない。立地と、気候的な問題だと思う。 大分北よりだから」
「そうか」
 さっさとフードを被り直したフェンが、ふと目を狭める。微かに眉根が寄った。
「サチ」
「うん?」
「酔ってる?」
「呑んでないよ」
「気持ち悪くなったなら、もう一日泊まっていっても」
「いやだから呑んでないって。二日酔いとかでもないし。何で?」
 何故酔っぱらいと思われているのか。ごくごく通常の状態だと思うのだが。
「……顔が白い」
 それまで黙っていたテオがぼそりと言った。サチは固まった。顔が白い? まるで女の子にする褒め言葉みたいだが恐らく違うのだろう。当たり前だ。――つまり、顔色が、悪いってことか?
「まぁ、この寒さだからさ」
 苦笑して誤摩化すが、フェンは眉根を寄せたままだ。
「……」
 沈黙。
 サチはなんとなく、フェンの言葉を待った。何だか続きそうだったから。
だが。
 ぐっ、と。上着の裾を掴まれる。
 ぎょっとして見やれば、彼女は難しい顔で、何事か考え込んでいた。幾度か口が開きかけ、音無く閉じる。
 暫くぽかんとしていたら、フェンは瞼に降り掛かった雪に、すぅっと目を細めた。
 サチは不意に、何か、たとえようもない心地になった。ああ。
 何かが、柔らかく溶けるようだった。 
 微かに震える唇を開く。フェン、と囁くように呼びかける。
「雪、好き?」
 フェンはゆっくりと瞬いた。ぼうっとサチを見つめてくる。けれどすぐに、ふわりと淡く微笑った。
「うん」
 しっかと、頷く。
 テオは目を伏せている。
 サチは目を覆った。
 ああ。
 ――――ああ。
「……そっか」
 震えるように薄く笑う。口許を。歪めるようにして。
 雪が降る。
 白に埋まる。
 故郷の色。
 弟の、白。
 ……彼女の髪。
 ああ。救われてしまう。いつも。銀の髪の英雄。彼の、ちいさな、友人。
「サチは?」
 彼女が言う。綺麗な目で。
「オレも、好きだな」
 サチは答えた。雪が好きだと、言ったのは随分久しぶりかもしれなかった。
 そう、と言うように顎を引いて、フェンは歩き出した。白くけぶり、闇を隠す森へと向かう。その後に、テオがゆっくりと足を動かした。 ちらりとサチを一瞥し、早くしろとばかりの眼差しを送ってきてから、さっさと行ってしまう。
 はは、と声に出して苦笑してから、ふとしんしんと降る雪の音を聴く。
 彼の、彼にとっての英雄は、彼らだった。
 彼を救ってくれた、ちいさな肩。
 けれど彼女の言うところ、“英雄” は侮辱になるらしいから、心の中だけに留めておこう。そうして置き換えるなら、彼女自ら名乗った偽王であろうか。
 フェン。
 早く、彼女が髪の色を戻すと良い。
 雪のような銀。
「ああ、雪は、好きだよ」
 彼は小さく呟いて、今はもうひとりの“英雄”のような頭の小女のあとをのんびり追い始めた。

 真っ白な弟の声を、思い出しながら。






サチはなんとなく苦悩のひと。のイメージがある。サチスキーだからかね!(おまえ)
それにしても昔の掘り出すのはほんと泣きたくなりますね……。