百合のひと










「君は何がしたいんだ」


 疲れたような声に振り向けば、豪奢な盛装姿の婚約者が、額に手を当てて立っていた。
フェンは花壇の前に座り込んだまま、ただ首を傾げる。
(…何が……、何のこと?) 
 分からなくて、口を噤む。と、彼はぐいっとフェンの腕を引いて彼女を立ち上がらせた。
「まったく分からないって顔しないでくれるかな! いいからちょっときなよね」
 吃驚しつつも頷いて、促されるがままにアシュレイの後をついていく。てのひらは握られたまま。
 ふわ、と甘い花の香りがした。花粉が濃く、蝶がよりつきやすい紫の花の匂いだ。
 その香りを、フェンは昔、軽薄に笑う、日に焼けた髪色の義兄に例えた。
 もう死した弟が無邪気に箱詰めで連れてくる蝶が苦手で苦手で堪らないのだ、と珍しくも弱った顔をしていた彼を思い出す。……軽薄で、軽薄だけど、とても優しいひとだった。放浪癖のせいで滅多に家にはよりついてやくれないけれど、決して彼がフェンやその兄弟達を厭っているわけではないと知っている。……多分、だが。
  さくさく、と草地を踏み分ける。さすがは公爵家の庭園だけあって、驚くほど広いと同時に、腕の良い庭師がいるのだろう、眼を見張るほど整い花咲き乱れている。美しい、庭。
「アシュレイ」
「何」
「……本当に、婚約するの?」
「その質問は正しくないね。婚約は、それこそ僕らが赤子の頃から成されている」
「……婚約披露、するの?」
「……その質疑もまた微妙だけど。まぁいいや」
 はぁ、とため息が落ちて、フェンの手を握る力は強まる。フェンは眉を寄せた。————答えになっていない。
「アシュ、」
「そんなことよりも」
 遮られた。
 くるりと振り向いた顔は至極詰まらなさそうだ。首を傾げて続きを待つ。暫く渋い表情をしていた彼は、ふと眉を開いた。
「その大量の花飾り、どうするの」
 フェンのアシュレイの手と繋がっていない腕の中には、こまごまと編まれた花飾りで溢れ返っていた。
 先程まで、花壇の隅でずっとフェンが作っていたのだ。
 白、白、白。それにふと見え隠れする、赤い花。
 フェンは年頃の令嬢だけれど、ごく普通の令嬢のように、他愛のないお茶会の席や社交界で繰り広げられるような甘い知識が少ない。花の名前もその意味も、効能意外は全く知らない。ただ、いつの時期、どんなところで、どんな風に咲くのか。それがその地域にどういう事象を齎すのか。 そういうことは知っている。それが必要なことだと、フェンの唯一の家庭教師が言ったからだ。
 なるほど、とフェンは遅まきながら理解した。彼がさっき疲れたように言っていたことは、これだったらしい。脇目も振らずにせっせと泥まみれで花を編み続ける彼女がよく分からなかったのだろう。ドレスの裾も汚してしまったし。
 ひとつ頷いてそっと花飾りを抱え直す。
「……これ、は」
 フェンは素直に答えようとして、はっと言葉に詰まった。実を云うとこれは、アシュレイにあげようと思っていたものだ。白い花は、高潔で強い彼にとても似合うだろう。婚約披露という重圧への、ささやかなお礼と敬慕を込めて。
 贈ろうと、思っていたのだが。
(そういえば、ギル兄様は男が花を贈られるのはどうだろう、と仰っていた……)
 アシュレイも花を贈られたくはないだろうか。不安になって、ふわふわした花飾りを抱きしめる。どうしよう。
「……ちょっと、途中で止まらないでくれる? 何?」
 苛立たし気に急かされる。フェンはまだ逡巡していたが、やがて困ったように、その花飾りをアシュレイの頭にかけた。
フェンとアシュレイにはそんなに身長差がない。だからかけるのは簡単だった。簡単だったがしかし。
「————は?」
 アシュレイは酷く驚いた顔になった。
 ぽかん、と口を開けて、直ぐさま向けられるだろうと思っていた責め苦も飛んでこない。 
 おかしい。
「……アシュレイ?」
「ッ、アシュレイ? じゃないよ! 何、これ」
「花冠。アシュレイに、似合うと思って」
「似合……ッ?! 」 
 愕然と、衝撃を受けたように婚約者は慄く。やはりまずいことをしただろうかとフェンが不安になった時、
「……似合うのは、君だろ」
ふわりと、頭に柔らかいものが被さった。
 眼をしばたたく。
 これは、たった今フェンがアシュレイにかけたばかりの花冠だ。
一番分かりやすくて、一番時間がかかる、花飾りのひとつ。
「……フェン。君は、この花の意味を知ってる?」
 ひとつ、ひとつ、アシュレイが指差していくのを追いながら、フェンは肩を落とした。……まったく分からない。
 そんな彼女の様子を察したのか、アシュレイはため息ひとつで「やっぱりね」と呟く。
「アシュレイは知ってるの?」
「当たり前」
 奢るでもなく言われ、フェンは複雑な気分になった。これは、カーズに教えてもらった方が良いのだろうか。だが今この頭の上にある花の意味くらい、アシュレイが教えてくれたりは……、
「まぁ気にしなくてもいいんじゃない? 知らなくても別に困らないだろうし」
 ……しないようだった。
 フェンはむすっと渋面を作り、花冠の位置を整える。
「 今、困ってる」
「そう?」
「だってアシュレイは知っているんでしょう。知っていたら、答えられた」
「まぁ、そうだけど」
 ざくざくと進んでいたアシュレイの足が急停止する。どこか戸惑ったような眼がフェンを見た。
「それって困ること?」
「困る」
「何でさ」
「だって、久しぶりにアシュレイが話しかけてくれたのに」
 フェンがアシュレイに会うのは本当に久しぶりだった。ここのところ彼は侯爵としての仕事が忙しいらしく王城中を駆け回っていると彼の師であり彼が唯一敬愛する姉カティアがフェンに教えてくれた。だというのにこんな今更の婚約披露宴などという催し物のせいで、彼はそれ以上に忙しくなってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 しかも、アシュレイは明日開かれる披露宴の前に、フェンを連れ出してくれたのだ。発表してからは周りが何やかやと煩いだろうから、と。そういうようなことを、酷く遠回しに言って。面倒そうな顔で。
——と。
「……? アシュレイ?」
「っ、な、何」 
 どもってる。
 急に耳元を赤くするアシュレイに手を伸ばす。ばさ、と花飾りが落ちた。気にせずアシュレイの額に触れようとさらに伸ばせば、寸前で手首を掴まれる。
「え、」
「……何」
 不機嫌な声が真近くで響く。フェンは瞬いて、え、ともう一度呟く。
「具合、悪いのかと思って」
「悪くない」
 ……何故かさらに機嫌が悪くなった気がする。
 その証拠なのかなんなのか、アシュレイは耳だけでなく、頬まで微かに赤らめていた。
「……フェン」
 アシュレイはフェンの両手を握ったまま、小さく呼びかけた。
「君が、不本意なことだけど、その花をくれると言うなら、僕は君にその花の意味をあげよう」
 花の意味?
「……別に分からなくていい。これは、僕があげたってだけだから」 
 すいっと眼を逸らされて、同時に手も離される。不意に襲ったそれは、温もりが離れた暫しの奇妙な不安感からくる淋しさか。分からないけれど、ただ、ほんの少し、残念なように感じた。
 さくさくとまたアシュレイが進む。緑が深く、綺麗な色の花弁が風に舞っている。
ある一点でぴたりと立ち止まったアシュレイは、瀟酒でいかにも高級そうな衣服が汚れるのも構わず膝をつき、懐から小さな折り畳まれた布を取り出す。何をするのだろうと覗き込めば彼の前には地小さな水桶のようなものがあった。すっと布が浸けられ、すぐに引き上げられる。適当に絞ったそれを持ったまま、アシュレイはフェンの方へ向き直った。立ち上がって、フェンの頬を掴む。
「……っ、冷、たい」
 ひにゃりとした冷たい布が頬に押し当てられる。ほぅ、と息をつけばぐいぐいと擦られた。
「?」
「気付いてなかった訳? 泥ついてる」
 呆れたように言うと、アシュレイは次にフェンの手の平を拭った。よく見れば、先程花飾りを抱えていた方の手が微妙に汚れている。
 綺麗に拭われ、フェンは奇妙な感動と共にアシュレイにお礼を言った。
 あのアシュレイが、こんなことをするなんて。まるでカーズのようだ。
「さっきの質問だけど」
「どれ?」
「やるよ。婚約披露宴。そのために、今まで駆けずり回ってきたんだ。やらなかったら僕の昨日までの労力が無駄になる」
 フェンは瞠目して、微かに笑った。
 如何にも、アシュレイらしい言い分だ。
「うん」
 アシュレイは一瞬奇妙な顔をして、ふいっとそっぽを向いた。
 フェンはまた、ありがとうと呟いた。君のためじゃない、とアシュレイは心底不服そうに言った。 







 姫百合、アマリリス、薔薇、ひっそりと飾られる野茨の実。
 アマリリスが意味するは“誇り”。確固としてある彼女の魂。
 野茨の実が示すのは“無意識の美”。ただ、そこにあるだけで匂い立つような高潔な美しさ。
 姫百合の花言葉は“強いからこそ美しい”。決して折れない、アシュレイが惹かれ焦がれた彼女の強さ。
 そして。

 薔薇が告げるのは秘めた想い、閉じられた言葉。




“貴女を愛する” 




 アシュレイはにっこりと笑うフェンの顔を直視出来ずに、そっぽを向き続ける。
フェンが花の意味を知らなくてよかった。


(こんなこと、言える訳がない) 










ブログから移動。うわああああ私の爵位スキーっぷりが全面に押しでていて恥ずかしい!

そして当時の私はどうもこのシリーズ書きたい病にかられていたらしく、ぽろぽろコネタが落っこちてました。下に転がしておきます。黄緑文字クリックで表示されますー。



白い花の指輪とちいさな祈り。

アシュフェンらぶらぶ(?)。

ある家庭教師の気鬱

カーズ→フェン。