げはどちら






 泳ぐくらげをぼんやり眺めていると、水槽に影が映って見えた。
 視線を向ければ、最もこの場を楽しんでいる人物が魚のようにすり寄ってきたところだった。どこか地に足のついていないようなその動きに、私はいつも、水中をただよう魚みたい、と感じる。少し跳ねた水色の髪を機嫌良く揺らし、そのひとがこちらを見下ろしてくる。
「ふふふ、『すいぞくかん』、やっと、これましたね〜」
 深海先輩は、いつもよりもだいぶ、生き生きしている。
 それもそうかもしれない、ここはこのひとの大好きな水族館。海洋生物部と同じくらい、彼の愛すべきテリトリーだ。しかも、今、彼はひとりではなく、大事な仲間たちと一緒にきているのだ。喜びもひとしおのことだろう。
 あたりを見回すと、流星隊の面々が思い思いにこの場所を楽しんでいた。進路の中央にそびえたつ、大きな筒型の水槽を右に、少し奥まった位置にひっそりと設置されたブースで、チョウチンアンコウをぼーっと観察する翠くん。その横でクリオネに感動する忍くんに、ふたりの様子を気にかけながらも珍しい色の魚の群れをまじまじと見つめる鉄虎くん。そして隊長たる守沢先輩は、意外にもラッコのかわいさに釘付けだ。そんな仲間たちの様子をみとめた深海先輩は、やはりとても嬉しそうに頬をほころばせる。私はその、とても嬉しそう、な、顔を、じいっと見つめる。汗を乾かす冷房の、寒いくらいのつめたさがうなじを撫でる。
「どうしました〜? ぼくの『かお』、なにか、ついてますか〜?」
 ぱちり、と瞬きをする。あまりにも見すぎていたらしい、深海先輩が、不思議そうに首をかしげる。私はゆっくりと首を振った。先輩が嬉しそうだったので、と本当ともごまかしともつかぬことを口にする。深い意味はないのだ。ただ、見ていたかっただけで。
 一方、私の答えにきょとんとした深海先輩は、やがて視線をゆるく巡らせたあと、はしゃぐ守沢先輩に笑い返してから、くすくすといつもの笑みをこぼす。水がくすぐるみたいに、心地よい声。いつからだろう。いつから、このひとの声が、こんなにも馴染んでいたのだろう。
「そうですね〜。みんなとこれて、ぼくは、とっても『うれしい』です〜」
 あんずさんは、どうですか?
 てらいのない問いかけに、思わず笑顔になる。はい、と私は大きく頷いた。私も、嬉しい。流星隊のみんなと遊びにこれたこと。それからーー深海先輩が、喜んでいること。
 それもこれもすべて、水族館から仕事がとれたおかげだ。遊園地やデパートで地道に続けてきたヒーローショーの活動がどう巡り巡ったのか、水族館でも子供向けのライブをやってくれ、というオファーがきたときは私もだけれど、守沢先輩もびっくりしていた。ヒーローはどんな場所でも求められているんだな! と先輩はすぐ調子を取り戻していたのだけど。
 そんなわけで、私たちは下見をかねて水族館に遊びにきていた。あくまでも雰囲気をつかむためのものだから、あまりはしゃぎすぎてもいけないとは思うものの、肝心の年長者ふたりがこうなので、行楽にきたのと変わらないさまになっている。特に今回は、深海先輩の方がはしゃいでいるようなので、どうもそれがまた守沢先輩にとって嬉しいらしく、水を差さないよう配慮している向きもあるみたいだった。あのひとは変なところで、満点の気遣いを見せる。まあ、こうして隅々まで楽しむことでわかることもあるだろうし、本番の役にも立つかもしれない。何より、翠くんが思いのほか満喫しているようなので、それだけでも収穫ではある。
「『かわいい』ですね〜」
 ぽつりと、あるいはしみじみと、どこか感動を含んで落とされたつぶやきを聞いて、私は水槽へと向き直る。確かに、そうですねえ、と私はささやかに同意する。視線の先で、色とりどりの魚たちが、ひらひらとひれをたなびかせて線を描く。岩場の影からのぞく、土色のひょうきんな顔の魚。自由そうなエイ。こういう水槽の中に、くらげがいるのは珍しいなあ、と私は目を細めた。透き通るそのからだが、玉虫色の光をまとって浮遊する。とらえどころのない姿。深海先輩のいっとう好きな魚たちとは、少し種類が違うけれど、やはり海の生き物たちは謎でいっぱいで妙に気を惹かれる。とはいえ、海洋生物部のこういったものも集めれば、まだ部員も集まるのではないだろうか。
「……おさかなも、かわいいですけど〜」
 微笑みと一緒に続けられた言葉は、仄かに困ったような気配を帯びていた。私は瞬き、問い返そうとしてーー瞠目する。鼓動が不規則に音を立てて走り出す。思考がいちど、真っ白に止まる。じわじわと競り上がってくる奇妙な高揚と混乱が湖面のように穏やかだった胸を掻き乱す。
「……せんぱい?」
 呆然と、そのひとを見上げる。いたずらに成功したような、でもいつも通りを装うにこにこ顔。
「なんでしょう〜?」
 なんでもきいてくださいね、とあくまで優しく、彼は言う。遠くで、鉄虎くんが呼ぶ声がする。そろそろ次のコーナーへ移動するようだ。だけど、動けない。 
 だって。
「あついのは、きらい、だったのでは……?」
 私のゆびさきをそっと絡めとる、その手の熱さ。心臓がそこに移ったみたいに、微かな身じろぎにさえ過敏に反応する。爪の先から溶かしていくような熱が、瞬く間にこちらにまで浸透していく。決して握る力は強くないのに、振りほどけるなんてまったく思えない。ううんーー離れていくことがおそろしい。何もかもを呑み込むような、底のない熱が確かに伝わる。
「『あつい』のは、にがてです。でも」
 秘密を明かすように、空いた片手のひとさしゆびを口許にもっていき、彼はやわらかくささやいた。
 ーーあんずさんのことは、とっても好き、ですから。
「……っ!」
 真っ赤になる自分を自覚する。たぶん、耳まで染まっているだろう。熱くて、熱くて、息ができない。気づけば私は顔を隠すように俯いていた。きゅ、といちど、先輩は握る手に力を込めた。びくんと肩が跳ねる。
「ちあきたちが、まってますよ。いきましょう〜」
 そう言って、楽しそうに手を引く先輩には動揺のかけらも見られない。むしろ、うろたえる私を見てなんだか少し、満足げだ。恨めしく思ってにらんでも、にこにこと見返してくるばかり。本当にマイペース。好き勝手に生きている。それはきっと、守沢先輩が深海先輩のために築き上げた平和のおかげであるのだろうけど。
「手は、だめです」
「そんなことないですよ〜。あんずさんが、『まいご』にならないよう、つかまえているんです」
 逃げちゃだめですよ、とおかしそうに笑う深海先輩は、結局そのまま、私を引っ張って連れていく。くらげのようにとらえどころのない、水のにおいの絶えないひと。
 だけどただ一点、その手の熱さだけは確かだった。
 だから私は観念して、おそるおそるその大きな手を握り返した。
 嬉しそうに振り返る、先輩の笑顔が見たかったから。





某ぷらいべったでもそもそ書いてたやつです。