道化の笑う暮れに






「あんずさんがいちばんを見つけられたら、それがどんな相手でも応援してあげるよ」

 夕暮れの暗い赤が、リノリウムの床に染み込んでいた。橙色の光を帯びるカーテンが揺らめく。首におろしたピンクのヘッドフォンを手持ち無沙汰にもてあそぶ、その仕草。世間話のついでのように、なんてことない声音で落とされた言葉が、やけに停滞した空気を緩慢に震わせた。話しかけられた方の少女が、ゆっくりと顔をあげる。ひとつ、ふたつ、透明な瞬きをする。床に座り込んで譜面を起こす作業に明け暮れていた彼女は、少し考えるように俯いてから、ふたたび彼に視線を向ける。はなのつぼみを思わせる、やわらかそうな唇がおだやかに音を紡いだ。
「いちばん?」
 どうして急にそんなことを言うのか、などとは、彼女は−−あんずは聞かなかった。ただ、彼の言葉の意味をきちんと理解しようと努めるように、そう問うた。いつだって変わらない、彼女のそういう生真面目な姿に、葵ひなたが笑みをこぼす。
「そう。いちばんに、特別ってことだよ」
「とくべつ」
「そう!」
 腰掛けていた窓の桟から飛び上がり、大道芸のように一回転。ふわりと浮いて、手近な椅子に乗り移る。軽やかな曲芸に、あんずがすかさず拍手をする。そして、かすかに首をかしげる。
「どんな相手でも?」
「うん」
 じゃあ、と彼女は手を止めて、まっすぐにひなたを見た。
「たとえば、羽風先輩でも?」
「う〜ん! ちょーっとおすすめはしないけど、前言撤回はしないよっ☆ 心配だけど!」
「朔間先輩」
「……あんずさんの身の危険をすご〜く感じるチョイスだけど、応援します! まああの人はなんだかんだよくしてくれそうだし!」
 羽風先輩よりはましかも〜と苦笑する。ふむ、とあんずがひとつ頷く。それからまた、口を開く。
「……じゃあ、」
「ん〜?」
「ゆうたくん、でも?」
 ひなたはにっこりと笑った。
「もちろん☆ 大歓迎だよ〜! むしろすっごく、応援しちゃう!」
 俺のだいほんめ〜い! そんなふうに、両手を広げて喜ぶ彼に、彼女はけれど、問いを止めない。
「ひなたくんでも、いいの?」
 ぴたり、とひなたの動きが止まる。笑顔のまま。それからうっすらと表情をつくり、彼はあんずを見返した。
「その条件は、変じゃないかな〜?」
「どこまでが、範囲なのかなって」
「あんずさんの意地悪〜!」
 軽く拗ねてみせてから、そうだねえ、とひなたは背中を丸めて考えた。あんずは静かに彼を見上げ、答えを待っている。夕焼けが強く彼女の顔を照らすから、その瞳のきらめきがひどく浮き彫りになる。いっそこわいくらいに。
「それは、無理だよ」
 ひなたは答えた。
 きれいな彼女の双眸を、しっかりと見返して。
「俺は、そういうのは、向かないもん」
 彼の拒絶に驚きも見せず、彼女はただ問い返す。
「そういうの?」
「あんたを、しあわせにする、生き物になること」
 俺はね、とひなたは言う。俺はね。ゆうたくんのために、生きてるから。ゆうたくんのために、死にたいから。ゆうたくんがきらきらになって、輝いて、幸せになってくれたら、それでいいんだ。
 きっと、ゆうたくんは、こういうことを言ったら、また怒るんだろうけど。そう、少しだけ困った笑みを洩らして。
「だから、俺は、あんたのことなんて、大事にできないもの」
 自分の心の傾きに気づかないふりをしていこう。ひなたは思う。こうやって、ふとした瞬間にあふれそうになる何もかも、すべてはゆうたくんの感情だから。俺は、このひとに対して何も思ってはいないから。完璧な道化の微笑みの奥に、ひなたは秘密の鍵をかけていく。自分にも弟にも彼女にも、完璧な嘘をついてみせる。
 ねえあんずさん、と嬉しそうな顔をつくる。
「はやくいちばんを見つけてね」
 そしたら、あんたが幸せであることを、ずっと信じて生きていけるでしょ?

 


 はっ……と目を覚ました。珍しくも、兄に声をかけられる前のことだった。まるでまだ夢の中にいるみたいに、目の奥に夕焼けが染みついている。無意識のうちに握りしめていた右手を、ゆっくりと開く。彼は口元を押さえ、こみあげてくる震えを呑み込んだ。
(……アニキ?)
 ふだん、自分には絶対に見せないような笑み。聞かせないような声音。口にしないような言葉。ーーそのすべてから、息も詰まるほどあまい感情がにじみ出ていた、のに。
「ゆうたく〜ん! 朝だよ〜、起きて☆」
 びくんっ、と背筋が強張った。頭上、二段ベッドの上から降ってきた声を仰ぐと、ひらひらと片手を振りながら兄が顔をのぞかせる。
「あれっ、珍し〜! もう起きてる」
「アニキ……」
 おはよ〜ゆうたくん、ひなたがにこにこと言った。だから、おはよう、とゆうたも返した。そうして、兄の顔をじっと見つめる。
 どうして、あんな夢を見たのだろう?
 最後には、兄の感情に飲み込まれそうだった。まるで、自分の想いであるかのように錯覚するほど。
「どうしたの、ゆうたくん。怖い夢でも見た?」
 あれは兄の夢だったのではないかーーふとそんな思いがよぎったのは、自分たちの過去ゆえか。昔から、変なところで思いもよらずシンクロしてしまうことが、多々あった。そのほとんどは、意外と察しのいい兄の気遣いに起因するものが多かったのだけれど。
 けれども、ひなたは決して表情には出さなかった。いや、もしかしたらゆうたの思い過ごしで、そもそも兄は同じ夢なんて見ていないのかもしれない。そんな気になるくらい、ひなたはいつも通りだった。考えすぎだ、と自らへの呆れと安堵がわずか胸に押し寄せた、そのとき。

「夢は夢だよ」

 ーーえ?
 心臓がどくりとひときわ大きく鼓動を立てる。全身の温度が急激に下がる感覚。思わず、ゆうたは兄を振り仰いだ。彼はにこりと微笑み、こつん、と額を合わせてきた。そしてゆうたが何か声をかける間もなく、「朝ごはんのしたくしてきま〜す☆」と元気よくはしゃぎながら部屋を抜け出ていく。その後ろ姿は、まだ寝間着のまま。
 いつものアニキは、俺よりはやく起きて着替えも済ませているのに。
 夢の中の兄の笑顔が脳裏に蘇る。ゆうたはのろのろと寝間着のボタンに指を伸ばし、けれどしばらくの間、何もできずに俯いた。
 夢は、夢だ。アニキの言うことは、きっと正しい。
 だけど。
「アニキの、バカ……」
 夢の中でさえ、簡単に幸せを投げ出そうとする、兄の姿が許せない。
 ゆうたは憂鬱なためいきを小さく吐き出すと、白いカーテンを引いて窓を開けた。
 窓の向こうに広がるのは、雲ひとつないまっさらな青空だった。







あんスタ転校生受版深夜の真剣一本勝負 お題:『軽音部』『夢』 にて某所で投げたものです。
気だるい零あんを書こうと思っていたら一瞬も出てこなかったぞ……?